徒然日記

映画、小説、日々の生活などで自分の感じたことなどをその時の気分で書いてます。

ご都合主義? そりゃそうよ!

こんばんは、初心者です。

さっそくですが、今話題の某アニメ映画の批評でも良く見かける「ご都合主義」というこの言葉。
自分が見てきたなかでは、映画、ドラマ、小説、マンガ等々、物語性を持った娯楽作品におけるレビューなどで専らマイナスな面を伝えたいときに使用される事が多いように思います。

僕も使う事があるのであまり強い事は言えないのだが、フィクション作品を評する時のこのご都合主義という言葉は、実はあまり好きではなかったりします。
なぜなら、物語性を持つ作品は全てご都合主義で成り立っているからです。

例えば有名なバスケットマンガ。
主人公が入学した高校が、普通の公立高校にも関わらず、たまたま全国クラスの選手が揃っており、監督も知る人ぞ知る有名な監督。そして自身も、バスケット未経験ではあるが天才的な才能を持っており、数か月でそういったトッププレイヤー達と互角に渡り合えるようになる。

例えば有名な魔法少年の映画の一作目
主人公は特別性の箒や透明マントなどの有能アイテムを付与され、その世界に存在するとある競技で自身の活躍により見事勝利を収め、しかも自分たちが言いつけを守らずに起こしてしまった事件を自分たちで運よく解決したならば、言いつけを破ったお咎めは無しで事件を解決した部分だけがフィーチャーされ、特別にポイントをもらい寮杯でライバル寮を抑えて一位となる。

例えばスマホゲームにもなっている聖杯を巡るノベルゲーム
12回死んでも大丈夫という能力を持った敵に対し、残り7回も殺さなければいけないところを、たった一撃にて七回倒すことに成功――ぶっちゃけ一撃で幾らダメージを与えても、それはただのオーバーキルなだけで殺せる回数は1回のみだと思うの――したり、普通の人間ではどう足掻いても勝てないとされている存在に対し、相手が油断・慢心しているという理由から、人間である主人公が見事勝利を収める。

これらはどれも人気があり、同時に作品そのものの評価も高い作品ではあるが、文面としてこのように書くと、それがどれだけご都合主義で成り立っているのか。そして、ご都合主義と物語の良し悪しはそこまで相関関係はないということがお分かりいただけると思います。

そもそも、物語からご都合主義を取り払ってしまったら、それはもう物語として機能しなくなってしまいます。
物語上に存在するキャラクター、そのキャラクターを取り巻く環境や、キャラクターの周囲で起こる事件(出来事)など、それら全ては物語を進行させるための舞台装置に他ならないからです。

ご都合主義がなければ、バスケマンガの主人公は只の不良として高校生活を終え、魔法少年は自分を引き取っていた叔父叔母とその子供に虐げられ続け、未来で英雄となる青年は少しばかり英雄願望の強い男性として一生を終えることでしょう。

まあこれは極端ですが、やはりもし自分が天才的な才能を持っていても、それを伸ばしたりしてくれるライバルや指導者が居なければ話は進まないし、現実的な思考をして言いつけを守らなかったため減点したためにライバルの寮に負けて2位になってしまえば話は詰まらなくなるだろうし、7回も殺す描写をわざわざ丁寧に書けばグダグダになってしまうし、逆にあっさりしすぎると強者感が薄まってしまい、やはり詰まらなくなると思います。

繰り返しますが、物語というのは、その物語のエンディングを迎えるまで、あらゆる事柄がご都合主義で進むのです。

では、どうして批判する時の言葉として『ご都合主義』というのが出てきてしまうのでしょうか?
これはあくまでも個人的な考えですが、それは自分にとってその物語に勢いがあるかどうかだと思う。テンポ良く物語が進み、面白い勢いを持ったままならば、ご都合主義だったりは気にならないような気がします。逆に、勢いがなければ冷静に物語を分析してしまい、そういったご都合主義な部分が気になってしまうのだと思います。

実際、僕自身も自分が面白いと思って見た作品は、他の人に指摘されるまで物語の矛盾点だったりに気づかないことが多いです。逆に、個人的にあまり面白いと思えなかった作品は、まるで面白いと思えない理由を探すかのように、無駄に物語の矛盾点に目がいってしまいがちです。
ちなみに、僕は魔法少年の映画や聖杯を巡るノベルゲームはあまり面白いと思えず、矛盾点だったり「説明不足だろ」と思ってしまうような部分にばかりが気になってしまいました。そうして行きつく先が『この作品は結構ご都合主義な展開だったな』みたいな感想になってしまうのです。

娯楽というのは結局のところ、自分にとって楽しい(好き)か詰まらない(嫌い)かの2択しかないわけです。そして自分にとって後者の場合において「ご都合主義」というのは、とても批判しやすい台詞な訳ですよ。なぜなら上にも書いたように、物語というのはエンディングまでキャラクターと作中の出来事という舞台装置を組み合わせて進めるわけで、粗を探せば矛盾点や都合の良い展開の一つや二つは簡単に見つけられるものだからです。

稀に、AとBの首を切断したらAの首とBの胴体が繋がって、それが走って自分の部屋に逃げた後に死んだから、Aの首のBの胴体、そしてBの首とAの胴体が別々の部屋で見つかったというとても擁護のしようがないミステリもこの世の中にはあるらしいが、僕はその作品は未読であり、実際に読んでみたら勢いがあって「なるほど。そういうことだったのか」とかバカみたいに納得してしまう可能性は決してゼロではないのです。

そんなわけで、レビューを書くことをお仕事にしていて、そして実際にお金を稼いでいるプロの批評家さんなどには、作品を批判する際にはその作品のダメだった部分を論理的に解説して、安易にご都合主義だという言葉に逃げて欲しくないなぁとか思う今日この頃でした。